第17話   M氏執念の4枚   平成16年08月06日  

一昨年サイトで知り合った仙台のURIの朝寝坊のM氏は以前団子釣をやっていた方で、そこそこの実績を持っていたが、ダイワのフィールドテスター名古屋釣法の大脇氏との出会いから落とし込み釣に転向なされた方である。

以前から落とし込みに興味を持っていた事から大脇氏のHPに書き込みで知り合い、そして仙台へご招待した事に始まる。仙台の黒鯛は北からの親潮と呼ばれる寒流が強く仙台湾の奥まで深く入り込む為に釣れ始める時期か遅く(5月末)、早い時期(10月初旬)に終る。同じ東北であっても日本海側は暖流の対馬海流が岸沿いに北上する為、比較的早い時期320日の彼岸の頃に沖磯で釣れ始め(ノッコミ)、翌年の1月中頃までの寒クロ釣に終わるのとは大違いである。

落とし込み(特にテトラからの前打ち)を始めてからも、落とし込み釣りが東北ではマイナーな釣の為にシャイな彼はその後もしばらく団子釣が中心のHPとしていた。そして極々親しい人たちに落とし込みの隠れページを用意し、更新の都度パスワードを送ったりしていた。だから、最近東北の若者にも人気で増加傾向にあるものの、数少ない落とし込みの人たちがHPを訪れることも少なかったような気がしていた。

そんな落とし込み釣は関東では40年以上前から中年から上の釣師のウキ釣りと共に若い釣師たちを中心に非常にポピュラーな釣となっていた。当時の若い人達にとっては黒鯛釣と云えば落とし込み所謂ヘチ釣りと云うほどに盛んな釣り方であった。その当時の黒鯛釣は東京湾奥の満潮になれば海水で一杯になるような低い堤防での釣から出発しており、代表的な堤防に合った使いやすい八重洲竿、横浜竿、野島竿の三種類の竿が存在した。そして各堤防には名人と呼ばれる方々が存在していた。ヘチ釣りはコスリ釣りとも云われるほど堤防の壁スレスレに落として行く釣り方であったし、ヘチに魚が居ない時は、前打ちも盛んに行われていた。そんな釣り方の総称が落とし込み釣りとして全国展開して来たのは、消波ブロック(テトラポット)が全国の防波堤に使われ始めてからの時期に符合する。消波ブロックが複雑な形に入り組み魚が安心して住める漁礁となり、新しい釣り方として消波ブロック周りで釣る前打ちがひとつの釣り方として独立した。これが若者を中心に受けて、全国展開してきた様に思う。

名古屋の大脇氏はそのどちらもなされて来た方で、仙台のURIの朝寝坊のM氏は特に前打ちを得意としていた。その彼は酒田での堤防では中々実績を上げる事が出来ず、この三年以上、来る度にボーズを繰り返していたのである。今年も5月と6月の二度ほど来酒したが、食いが浅かったのかバラシ一回のみで実績0という結果に終わっていた。84日台風が過ぎ去ったばかりで前日の強い南風の為にうねりの残る、しかも暑い最中の日中に三度目の正直でテトラからの前打ちに挑戦してやつと待望の黒鯛が釣れた。二枚目が釣れた朝9時半に電話が入り「酒田に来てます〜!やっと釣りました!」と第一報。その後お昼過ぎに水路に出掛け、電話を入れると息が弾んでいる。もしや!と思っていると「取り込みしてました〜!!」「エッ!」。しばらくすると堤防の上に姿を現した。これで3枚目。「何とか5枚釣りたいです〜!」と彼。直ぐに冷たい水でのどを潤して又出撃。暑いながらも、昼過ぎから北西の風が出てきて肌に心地良くなっていた。うねりも大分収まって来ていると云う。「帰りの予定は」と聞くと3時に船溜りに戻る予定です〜」と云う。

三時に冷やしたスイカと飲み物を差し入れに持って行く。船が着いておもむろにクーラーを開けると47cmを筆頭に見事な黒鯛4枚が見えた。釣れた時の釣師は疲れを感じさせない。この3年間仙台から何度となく足繁く通って来る彼に釣らせる事が出来なかった私に、その夜遅くメールが入った。潤いましたぁ水分が切れた彼に差し入れの冷たいスイカと飲み物は身体を潤したが、それ以上に釣れたと云う満足感は身も心も正に潤ったに違いないと感じた一言であった。